日本でイノベーションを起こすためには(26)(本編その8)

では前回の続きで、道徳販売の天国についての説明をします。

 

天国については、このブログで以前簡単に説明しましたが。天国というのは悪行さえしなければ行くことが出来る所になりますので。

通常は会社勤めをして得られる報酬と、その生活となります。

例えば、300年前の人に比べれば、現代人の暮らしというものは天国のような暮らしをしているのです。

冷蔵庫に洗濯機、エアコンに自家用車、電車に飛行機で遠出も簡単に出来ますし。スマホにネット社会、コミュニケーションも片手で操作すれば簡単に出来る世の中です。

会社勤めをして得られる報酬で私達は天国のような暮らしを手に入れているのです。

もちろん会社を解雇になり報酬が途絶えると、300年前の人と同じような暮らしをしなければいけなくなりますので、そこは地獄となるのです。ようは前回の記事の会社の解雇が地獄ということです。

とはいえ、報酬と、その暮らしが天国では、今までと何も変わらないではないかとなってしまいますので。

 

さらにここに、道徳社会をプラスします。

 

ようは、こういうことです。

「有能な新卒の皆さん。私達の会社で働いてくれるのなら。あなた達には道徳に満ちた会社勤めをお約束します。あなた達はこの会社に勤めることにより、村八分のような陰湿陰険な被害から守られることになります。子供の頃のような、いじめにあうことはもうありません。私どもの会社では、他者を落とし入れ、蔑み、憎むような、醜い心根の者たちを決してゆるしません。もしそのような者からの被害にあった場合は、その者を即刻解雇します。また、何かのトラブルや、他者に対する不平不満があった場合には、必ず話し合いによって、お互いの意見を聞いた上で、和解して解決をすることをお約束します。訴えた者だけの意見を一方的に聞いて差別をしたり、秘密裏に付け回しやストーキング行為をして監視をしたりするような村八分行為などは絶対にいたしません。誰しもが安心して働くことが出来る職場を提供いたします。そして、この会社では道徳教育と道徳販売を行うことにより、ライバル会社との差別化をはかり。売上アップと市場の拡大による成長が約束されているため、皆さんの収入もライバル会社の社員よりもより多い報酬が支払われることになります。皆さんの足を引っ張り、皆さんの行く手を阻む者達は、この会社にはいません。新しい時代の、新しいアイデアをどんどん出して、さらなる成長と、イノベーションによる世界市場における飛躍を目指してください。」

 

安定した収入と成長、さらに高い道徳意識による村八分のない職場環境。

 

これが天国となります。

 

では次に、神の教えについての説明をします。

道徳教育における神の教えとは、理想の人間としての立ち振舞とはどのようなものかを指し示すことにあります。

村八分を積極的に行う者というのは、自分に都合のいいように善悪を作り変えてしまい、自分こそが正義だと言い張り、自分の悪行を正当化してゆきます。

なぜこうなるのかというと、道徳心の低い人物というのはどのような立ち振舞をすればいいのかという教育を受けていないからなのです。

こういったケースにはこう立ち振舞いしなさいという、自分を投影するためのビジョンが何もないのです。そのため彼らは、どう振る舞えばいいのか分からず、自分勝手に善悪を作り変え自分こそは正義だと多数派を作り、多数決で自分達は正しいと正義を偽装して、平然と村八分をやりだすのです。

このため対処方法としては、まず最初に善悪の基準を作っておくのです。

以前このブログで話しましたが、善悪で大事なのは悪行が何かになります。悪行さえしなければ天国に行けるので、悪行が重要になるということです。

では、具体的な村八分の悪行については、前回のブログで会社を解雇される理由で述べましたので、そちらをお読みください。

村八分の悪行がどのようなものか理解したとして、ではそのような行いをやりそうになった時、どのように振る舞えばいいのかとなりますが。

ただ、これは非常に難しく。今の会社組織の内部組織だけでは、これを教えるのはほとんど不可能ではないかと思います。

例えば、「悪口を言ってはいけません。」というのを伝えるだけなら、紙に書いて渡して読んでおいて下さいね、で終わりですが。ではこれで、村八分を積極的にやっている者たちが村八分を止めたりしますか?というと、止めるはずがないのです。

「悪口を言ってはいけません。」という、当たり前の常識でさえ止めさせるためには。どのような物語や例え話で納得させればいいのかという知識や経験が必要となるのです。

こんなことを、会社内部で独自にやって簡単にできるとは、とうてい思えないのです。

では、どうするのかというと。

その道のプロにお願いするのです。

 

その道のプロとは誰かというと、世界宗教になります。

 

宗教は元々、社会の中心で人々に道徳を教えていた総本山になります。

日本で世界宗教といえば、仏教であり、次にキリスト教となるのでしょう。(宗教には新興宗教もありますが、歴史の浅い宗教はまだその内容が人々に理解されておらず、社員教育としては外させてもらいます。)

ようは地元に根ざした土着の昔からある、世界宗教のお坊さんや神父さんに来ていただいて、彼らの持っている道徳の物語や逸話などを社員教育として聞かせて頂き、道徳的な立ち振舞とはどのようなものなのかということを、具体的なビジョンとして植え付けていくのです。こうすることによって、村八分を起こしそうな感情が心の内から湧き出たとしても、それを客観視し理想の自分を保とうとその感情を滅却できるようになるのです。

 

あと注意が必要なのは。

村八分には中毒性があるということです。

子供のいじめもそうなのですが、他者をいたぶる行為というものには、本能的な興奮や快楽といった感情が芽生えますので。(詳しくは、このブログの「イジメとは」をお読みください。)小さい頃から他者をいたぶり、そういった快楽を何度も味わって来た者は、罰則を作り、天国を説き、理想の生き方を示したとしても、村八分の他者攻撃によって得られる、快楽にあがなうことができず。何度も何度も村八分をやり続けようとするのです。いじめをしている小学校の生徒が、先生に何度注意されても止めずに、学校の外でもいじめをやろうとするのと同じなのです。

もっと分かりやすく言うと、薬物中毒患者と村八分の常習犯は同じだということです。

麻薬の使用は医師の診断によるものでない限り違法行為ですが。本人に法律違反だし、自分の体も悪くするだけだから止めなさい、と言っても。彼らは、「違法行為で捕まるのは俺だから、他の者には迷惑をかけてないのだからいいじゃないか。」とか。

「俺の体のことは俺のものだからほっとけ。」と、一切人の話など聞かずにやり続けるのです。

村八分の常習犯も同じで、法律違反になるし、被害者の人が可愛そうだから止めなさい、と言っても。

「大丈夫、大丈夫、証拠が残らないようにやるから大丈夫」とか。

「可哀想?ですって、浮気をしたのはあの人よ、悪いのはあの人よ、私はあの人に家の鉢植えを割られたのよ、これは喧嘩よ口を挟まないで。」

といったように、他者攻撃による快楽欲しさに、相手の話も一切聞かず一方的に、妄想に妄想を上塗りしたような屁理屈で、自身の行いをひたすら正当化して話を聞こうとしないのです。

 

快楽による中毒患者を治すには、ひたすら忍耐が必要になります。

しかし、それでも彼らは私達の隣人になります。

聖書の言葉にこういったものがあります。

「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい。」

こう考えてみてください。

もし、あなたが中毒患者になり。どこかで悪いことだと思っているのに、快楽の誘惑に勝てずに、自身を滅ぼすような行いをやり続けているとしたら、どうでしょうか。

村八分で自身を滅ぼすというのは、隣人を自殺に追い込み殺す社会では自身もいつ被害者になるかわかりませんし。そのような社会では、子を持つ母親は処世術として自身の子に「いじめを見かけたら一緒にいじめときなさい。」と、教えますので、自身の子供がいじめの被害に合い自殺へと追い込まれる場合もありますし。会社組織では、目立ったことをして村八分に合うことを恐れ、ありきたりな改善案しか出てこなくなり、会社は衰退の一途をたどり、いずれは倒産へと導いてしまいます。

にもかかわらず、止めたいのに止められない。

このまま続けたら、自身も周りの人も巻き沿いにして、滅びの道を歩くしかないのにどうしても止められない。

そうなったら、どうでしょうか?

神様でも誰でもいいから助けて欲しいと思うのではないのでしょうか?

自分が助けて欲しいことは、相手だって助けて欲しいのです。

相手を助けるということは、自分も助けてもらえるということなのですから。

あなたの隣人を、あなた自身のように愛することは、あなた自身も同じく隣人に愛されることなのです。

私達はお互いに助け合って生きてゆくしかないのです。

しかし、その道のりは長く険しいものになるのかもしれません。それでも私達は彼らに寄り添い、あなたの内にある快楽を求める心根があなた自身を盲目にし、支配していることを根気よく教えていくしかないのでしょう。

 

また、このような中毒患者の、道徳教育を世界宗教のお坊さんや、神父さんに頼んでしまうのは少々気が引けるともいえるのですが。

ただ、世界宗教が今のように世界中に広まっていったのは、この中毒患者達に道を示し、争いや混乱の中から救ってきたからだといえます。

しかし、人類の不幸な歴史を振り返ると。宗教は物質的豊かさを求める人類の欲求から、科学によって神の存在や、天国や、地獄は否定され。世界宗教は大人世界の道徳教育の第一線から撤退を余儀なくされました。

これらの様子を見て、哲学者のニーチェなどは「神は死んだ」と言ったのですが。

しかしながら、世界宗教の持っている物語や逸話など人々を導く知識や経験は、数千年の歴史があり。今もなお人々を魅了していることは事実であり。完全に死んだとは言い切れないのでしょう。

ただ、世界宗教が道徳を人々に説くときに使っていた、天国や、地獄の、観念は一部の熱心な信者を除いては、ニーチェの言ったように死んでしまっていると言えます。

 

だとするならば、世界宗教が失った天国や地獄の観念は、ビジネスモデルとして会社が引き受け。その代わり会社が持ち合わせていない神の教えの部分、ようは精神世界の部分を世界宗教に補ってもらえれば、最良の形で道徳教育ができるのではないのか、というのが今回の経済と精神世界を融合させたビジネスモデルとなるのです。

 

かつてニーチェは「神は死んだ」と言いました。

しかし、宗教と、経済、お互い足りないところを補填し合えば。

かつてのように、社会の中心で宗教が道徳教育を施し。


 

今一度、人々の心の中に「神は復活する」といえるのではないでしょうか。



 

ここで、断っておかなければいけませんが、これはイノベーションではありません。

イノベーションを起こすためには、日本社会の村八分社会が障害になるために。

その村八分社会を克服するための改善案として提案したものとなります。

実際の精神世界のイノベーションを起こすためには、これよりもはるかに複雑なシステムを設計する必要があるでしょう。

もっというならば、ここに書いてある村八分社会の克服案すら実現できないような企業や社会では、精神世界のイノベーションという世界史を変えるような一大プロジェクトなど到底できはしないといえるのです。

本気でイノベーションを起こし世界市場のトップに立つ気があるのならば、たかだか村八分社会など克服して見せなさいということなのです。

 

では、精神世界のイノベーションがどのようなものかについてですが、残念ながらここでお話することはできません。

というのも、イノベーションが起こった後の世界がどうなるかは、イノベーションが起こる前の世界の者には分からないからなのです。

イノベーションは、起こった後の世界を具体的にイメージして、これだけの富を生み出すからやりましょうというものではないのです。

イノベーションは、そうすることが人々にとって、必要と思えるからすることなのです。

人々が何を必要としているのかというと、それは幸せな人生を送ることなのです。

人々が幸せな人生を送るために必要なものはというと、「愛」と「道徳」と「物質的豊かさ」だとなります。

そしてこの三つのものを、一つに統合する革命が精神世界のイノベーションだとなるのです。



 

長くなりましたが、ここまでお付き合い頂き有り難うございます。

私の言いたいことは、おおむね書かせて頂きました。

このため、このブログはいったんお休みしたいと思います。

できれば、このブログの記事の拡散をして頂ければ嬉しく思います。

あと村八分社会撲滅のため、このブログの内容で使いたいアイデアがあればご自由にご利用ください。

では、また何か書きたいことが出来ましたら、こちらのブログで書きたいと思います。

それはもしかしたら1週間後かもしれませんし、1年後かもしれません。

いつになるかは分かりませんが、その時はまたよろしくお願いします。



 

最後になりましたが、ここまでこのブログをお読み頂いた読者の皆様に、

 

「愛」と「道徳」と「物質的豊かさ」のご加護がありますように。



スポンサーサイト



日本でイノベーションを起こすためには(25)(本編その7)

では、村八分社会をビジネスモデルで克服する方法についてですが。

その前に、簡単にではありますが村八分の手口について説明しておきます。

 

前回の記事の、村八分にあった農家の奥さんのケースで説明しておきますと。

まず最初に、被害者である農家の奥さんの近所の奥さんが「あそこの奥さん浮気をしてるのよ。」と嘘の話をでっち上げ広めました。そしてその嘘話を信じた近所の人々が様々な嫌がらせをしていったわけです。

この場合、最初に噂話を広げた近所の奥さんは村八分の直接的な嫌がらせには参加しません。

なぜならば、最初に不倫をしているという噂話をした奥さんは、自分が嘘をついていることを知っていますから。嘘がバレて相手に反撃されると困るので、直接的な嫌がらせには参加しないのです。村八分は名誉毀損罪や、侮辱罪、ストーキング行為などの犯罪行為ですので、嘘をついているのがバレれば相手に告訴される恐れがあるため、最初に嘘をついている人間は表には出てこず、他の者にやらせようとするのです。

ところが、嘘情報とも知らず村八分に直接的に参加している者も、そのうちにこのままやっていれば自分が訴えられるかもしれないと思い始めるのです。

しかし、村八分を止めようとか、抜けるとか言い出すと、裏切り者として自分も一緒に村八分に合うかもしれないとかんぐります。

そこで、村八分を積極的に広めていた人物などは一番告訴される危険性があるわけですから、そこから抜けたいと思い自分の身代わりを作ろうとするのです。

例えば、被害者に村八分を仕掛けていた加害者の一人をターゲットにして、その家の鉢植えを夜中にこっそり割ったりとか、郵便受けに鳥の死骸を投函したりするのです。

そして、そのターゲットにした相手にこう言うのです。

「あの不倫をしている奥さんが夜中にあなたの家の方にコソコソと歩いて行っているのを見たって言う人がいるのよ。この間、あなたがあの人の不倫について陰口を叩いているのを聞いていたから。仕返しにやっているのよ。自分が不倫をしたから言われているのに、酷いわね。やられたら、やり返した方がいいわよ。私は、あなたの味方だから。応援してあげるから、やり返しなさいよ。」

こうやって何も知らない奥さんは、被害者から攻撃を受けたからやり返してやると思い込み、更に酷い村八分を先導を切ってやり始めるのです。

 

おおむね村八分の手口とはこういったものになります。

村八分を積極的にやっている者達というのは、結局は裏から操られ、ピエロのようにダンスを踊っているだけにすぎず。村八分を仕掛けた黒幕は、裏でその様子を高みの見物で、ニヤニヤと笑いながら楽しんでいるというわけです。

こんなものは、村八分を直接的にやっている者も騙されて踊らされている被害者であり。加害者も被害者も誰も得をしないというのが、村八分なのです。


 

それでは、具体的なビジネスモデルの説明をします。

 

まず、宗教の道徳教育をビジネスにスライドさせるわけですが。

宗教には、神の教えと、天国、地獄があります。

神の教えと、天国については後で説明するとして、まずは地獄の説明をしたいと思います。

(道徳がどのようなものかについては、このブログの(本編 道徳の構造について)をお読み下さい。)

まずは、地獄(罰則)を2つ作ります。

 

1つ目の地獄は、法律になります。

村八分でよく行われる違法行為としては、名誉毀損罪や侮辱罪などがあげられます。

もちろんこれらの法律は昔からありましたから、今更何を言っているんだとなりますが。

ところが、実際に告訴をしようとすると弁護士費用など100万円ほどかかるとか、判決が出るまでに1年ほど時間がかかるとかの問題が出てきてしまうのです。

このままでは、罰則としての効果があまり期待できませんので。

この裁判にかかる負担を軽減するためのビジネスを展開します。

例えば、道徳保険というものを作り。

不徳を行った者を、法律で裁きやすくするために。悪質な村八分を受けた者には、裁判にかかった費用を保険で負担できるようにしたりとか。

保険の費用を抑えたい者には、弁護士無しでも裁判が出来るようにマニュアルを作り、ネットや電話でレクチャー出来るようにして、裁判費用を出来る限り抑え、加害者に罰則を与えやすくします。

また、犯罪が行われているにも関わらず罰則が適用されにくい社会というのは、村八分を社会として容認してしまうことになりますので。道徳保険に入って下さった、利用者の生活を守るために、裁判にかかった費用の加害者負担や、裁判の簡略化などの時間短縮の法改正なども求めて行きます。

また、名誉毀損罪や侮辱罪は本人が直接告訴する必要がありますので、ネット上で利用者の悪評や成り済まし情報などを見付けた場合には、本人に報告し告訴のご案内をするというサービスもします。

こうすることによって、村八分の被害者救済と犯罪の抑止を進めてゆきます。

 

2つ目の地獄は、会社の解雇になります。

ようは、村八分を行った者は問答無用で解雇するというものです。

ただ、ビジネスモデルとしてやるわけですから、村八分を行ったからただ単に解雇するといった内容ではありません。

まず最初に道徳協会といったものを作ります。

この協会は、道徳教育を積極的に行った会社に対して道徳マークというものを発行します。

考え方としては、エコマークと同じです。

エコマークが付いた製品は地球環境に優しく、自分達の未来の生活の役に立っていると思い購入したくなります。

エコマークと同じで、道徳マークが付いた製品の会社は道徳教育に熱心で。村八分の被害をなくしてくれますから、そういった会社の従業員の家庭では「いじめを見かけたら一緒にいじめときなさい。」と教えてはいないだろうから、子供達の未来のためにもそういった会社の製品を買いたいと思うわけです。

では、具体的に何をするのかというと村八分の代表的な手法としては、本人に反論させないような方法で一方的に非難するといった方法がとられます。

例えば少し離れた所で本人の陰口を叩くとかです。

そもそもこれはただの悪口ですから、名誉毀損罪や、侮辱罪などの違法行為になります。

このような違法行為を社内ですることは一切認めません。

何度注意しても改善されないようであれば解雇します。

他にも、本人のいない所で、悪評をたてる行為も禁止します。

例えば昨今はネット社会ですから、ネットの噂話を元に悪評をたてるケースも。自分が言ったわけではない、ネットで言ってたことだというのも、違法行為ですので処罰します。

またネット社会では本人に成りすまして悪評をたてるケースもありすので、そういった情報を流布した場合も処罰します。

もちろん社内の出来事をネットに流し、他の社員の悪評を流した場合も解雇します。

また、特定の者を不当に無視したり、気に入らないから落とし入れてやろうと他の者に呼びかけたりした場合も処罰します。

またこれらの行為が社内や社外でも行われていることを知った場合には会社に報告する義務を設けます。この報告を怠った者は、村八分を隠蔽した行為とみなして処罰します。

あと、会社に他者に対する異議申し立てがあれば、必ず訴えられた者に対して情報を提供します。訴えられた者に内容を伝えなければ、反論もできませんし誤解も解けず和解もできません。相手に反論させないように非難するのは村八分の手口になりますので、相手に情報を提示しなければ会社が村八分の協力をしていると取られかねませんので、必ずその異議申し立てを伝えるようにします。

そもそもここに書いてあるものは、小学校の先生が子供達に言い聞かせている道徳教育の内容レベルのものです。小学校の子供達が守らなければいけない道徳すら、大の大人の社会人が守れないというのでは、会社勤めする資格がないといえます。たかだかこの程度の道徳さえ守れないのでは、会社がそのような労働者を雇っておく理由などないといえるのです。

 

また、1つ目と2つ目の対処を連動させ、道徳保険に入って下さった顧客が自社の社員の悪口により被害を受けたとなった場合にも、その社員は解雇します。

 

道徳保険と道徳マークは、同じ一つの道徳販売のセットとして、宣伝広告し販売をしてゆきます。

 

道徳マークは雇用にも有利に働きます。

そもそも、村八分が横行しているような企業では誰も働きたくないと思うのが普通です。

道徳マークを貼り、道徳が担保されている企業と、道徳に無頓着で村八分が頻繁に行われている企業とどちらに行きたいですかと、新卒に尋ねれば間違いなく道徳の担保されている企業に行きたいとなります。

ようは、道徳マークを貼った企業には優秀な人材が集まり、貼らなかった企業には不道徳な村八分をして楽しみたいというモラルハザードを社内で起こすような人材しか集まらなくなるのです。

会社というものは人が動かしていますので、人材の優劣でその会社の運命は決まってしまいます。

そういった意味でも道徳マークの利用というのは、会社の運命を決める重要なビジネスモデルだといえるのです。

 

一応断っておきますと、これはあくまで一つの例にすぎません。

ここに書かれたことをそのままやれば、全てうまくいくと言っているわけではないのです。

それぞれの会社は、それぞれに事業形態が違いますから、自分の会社に合ったやり方でやる必要があります。

とはいえ何の例も示さずに、ではやって下さいと言った所で。どうすればいいか分からないとなってしまいます。

そこで、こんなやり方もあるんじゃないですかという例をあげ。参考にしてもらえればと書いているわけですので、ご理解頂ければと思います。

 

あと、天国と神の教えについては、長くなってきましたので次回にしたいと思います。
 

日本でイノベーションを起こすためには(24)(本編その6)

日本は今現在、キリスト教の言う所の原罪の中にいます。

村八分にいじめ、自分達の都合のいいように善悪の基準を書き換え他者をいたぶってもいいというのは原罪であり。

どの形が他者や社会にとって価値ある基準かを話し合いもせずに形を押し付けるのは、仏教思想の三法印からも悪行であるといえます。

 

では、これらの村八分、いじめが、社会にとってどのような弊害があるのかについて確認しておきたいと思います。

 

まずこのブログでは、イノベーションが起きなくなることを説明しました。

イノベーションを起こそうとすると、今までの価値観を大幅に変更しなければいけなくなります。このため、今までのビジネスモデルでポストに着いていた者の地位が保証できなくなりますし、一般職の者も業務形態の大幅な変更で職を失うこともあります。このため、村八分社会では、そのイノベーション自体での反対に合わなくても、ようは善悪の基準を勝手に書き換えてもいい社会ですから、イノベーションを起こそうとする者の人格やちょっとした素行の悪さや、事実と違う悪評を立てられ間接的にイノベーションが失敗するような働きかけが起こるのです。

また人と違うことをしようとすると、その社会の中で目に付くわけで。とすると、先程いったような村八分が起こるかもしれないと予測されますので。先読みをしてイノベーションのような、大幅な社会の変更をかけるようなアイデアは最初から出さない方が身の安全をはかれるとして、アイデア自体を出さなくなるのです。

また村八分社会では常に他者から村八分を仕掛ける機会を狙われていますので。このような社会で身の安全を確保するためには、自分が常に村八分を仕掛ける側に回らなければいけませんので、多数派工作で派閥を作りその派閥に攻撃を仕掛ける者がいると敵対心を煽り団結させておく必要があります。もちろん、その派閥に加わってない者は狙われる可能性がありますので、さらにそれらの者達も身の安全のために派閥を作り他の派閥に狙われるとして敵対し、内部を団結させていなければいけなくなるのです。

ようは社内で分断が起こり、お互いに足の引っ張りあいを始めますので。イノベーションどころかちょっとた改善案でも、いつかどこかでやって成功した石橋を叩いて渡るようなありふれたアイデアしか出てこなくなり。その企業はライバル他者との競争についていけなくなり衰退し、いずれは市場からの撤退を余儀なくされるのです。

 

他にも上げて起きますと。

もちろん村八分やいじめには、直接的な被害もあります。

最近の有名な例ですと、女子プロレスラーの女性がTVの恋愛番組で人として不適切な言動をしたとして、ネット社会で叩かれまくり自殺をしたというケースがあります。

(このブログは村八分やいじめの加害者を糾弾するためのものではありませんので、詳しくは説明しませんので、よろしくお願いします。)

しかしこのようなケースは、ネット社会になった現在だから起こったわけではないのです。

今から数十年前、私が小学校の頃に学校の授業で教わった村八分の実話をお話します。

とある田舎の農家の夫婦の話です。

ある時、農家の奥さんが、近くにセールスに来ていたセールスマンの若い男性と意気投合し道端で楽しそうに話していたそうです。

それからしばらくしてからのことです。誰が言ったのかは分かりませんが。その農家の奥さんは、その若いセールスマンと不倫関係になり旦那さんに隠れて付き合っているという噂がその集落に広まったそうです。

その後その集落ではその噂話で持ちきりになり。その農家の奥さんに対して、話しかけられても無視をしたり、ちょっと離れた場所で陰口を叩いたり、回覧板をわざと回さなかったりと、陰険な嫌がらせを必要にするようになったそうです。

農家の奥さんは、直接不倫をしてるのかと聞かれることもないので釈明も出来ず、ただただその嫌がらせに絶え続ける日々が続き、最後には「私は不倫なんかしていない。」という遺書を残して、家にあった農作業用の農薬を飲み服毒自殺をしたそうです。

通夜の後、怒った農家の旦那さんは、その集落の集会で妻が不倫をしているという噂話を誰から聞いたか一人一人聞いていったそうです。

そして、最初にその噂話をした人物までたどりつくと、それは自分の家の近所の奥さんでした。

なぜそんな噂話を広めたのか、その浮気の現場でも見たのかと問いただすと。

その奥さんは、若い男性と楽しそうに話している姿を見て、つい羨ましくなり嫉妬心にかられて言ってしまった。浮気現場などは見ていないと、謝罪したそうです。

 

たったそれだけの嫉妬心で、自分の住む家の近所の人をおとしいれ、自殺させてしまう。

 

村八分、いじめは、今に始まったことではないのです。

日本人は何十年も前から、ずっと同じことを永遠としているのです。

ネット社会の誹謗中傷によって自殺したプロレスラーの女性のケースは、ネット社会になったことによる被害者ではないのです。

ネット社会による誹謗中傷のため証拠が残っていたから、大々的に取り上げられただけなのです。

このようなケースは日本社会にはいくらでもあるのです。

表に出てきているものなど氷山の一角にすぎないのです。

いらぬ風評を広げ、他者を追い込み自殺させるまで叩き続ける。

この社会がまともではないことは、わざわざ神や仏の教えを説かなくても本来分かることなのです。

 

他にも上げておきますと。

この大人社会の村八分は、子供社会のいじめ問題に深刻な影響を与えています。

まず大人社会の村八分では派閥を作り敵対者に村八分をしかけ攻撃します。

村八分は集団でやりますので、例えば攻撃される側が間違ったことをしていないと思いかばおうとすると、村八分の集団は自分達の派閥を裏切った裏切り者と受け止め、かばった者も一緒に村八分にするのです。

このためいったん村八分が始まると、下手に止めることも出来ず、放置されることになるのです。

 

このことが子供のいじめ問題とどう関係しているのかというと。

以前、子供を持つ二人の母親同士が、子供のいじめについて話しているのをたまたま聞く機会があったので、その話をしたいと思います。

 

1人の母親が子供のいじめについて質問しました。

「子供がいじめを見た時どうすればいいか、どう教える?止めさせる?」

もう1人の母親が答えます。

「絶対、止めさせない。一緒にいじめなさいって教える。」

最初の母親が言います。

「そうよね。かばったりして一緒にいじめられもしたら損だよね。」

 

だそうです。

いじめで子供を自殺に追い込まれ殺された母親が聞いたら発狂しそうな会話ですが。

これが日本社会の道徳教育の実態なのです。

なんとも酷い話だなと思いましたが、だからといって私はこの母親たちを責める気持ちがわかなかったのです。

なぜかというと。

この母親たちも、日本の村八分社会の被害者だからです。

村八分社会で被害に合わないためには、つねに加害者でなければなりません。

子供のころのいじめや、社会に出てからの村八分。

そこで一度でも被害にあえば、誰も助けてはくれず放置されます。

助ければ裏切り者として一緒に村八分に合うわけですから放置するしかないのです。

そういった社会の中で生きている者は村八分の残酷さを知っていますので、自分の子供にはこのような社会の被害には合わせたくはないと思うのが当然なのです。

彼女たちが子供に一緒にいじめをしなさいと教えるのは、この日本社会で安全に暮らすための処世術なのです。

そういった意味では、子供を日本社会の被害から救いたいという、母の愛でもあるのです。

もちろん、他者の子供を犠牲にしての愛ということになりますので、これは善悪では悪となりますが、彼女たちにはそうするしか子供を守る方法はないのです。

当然そうやって育てられた子供には道徳観念などありませんから。

学校でいくら先生がいじめはしてはいけませんと、言ったところで。

家庭ではいじめをしなさいと教わっていますから、先生に見つからないようにいじめをすればいいと思い、何の歯止めもかからないまま、相手が不登校になるか、自殺に追い込んで殺すまで徹底的にいじめ抜くわけです。

本当に残念なことですが。日本の子供達というのは、いつ自殺に追い込まれて殺されても仕方がないような時代に生きているといえるのです。

大人社会の村八分を放置するということは、私達の子供達を地獄のような世界へと叩き落としていることに、他ならないのです。

母親を責めたって仕方がないのです。彼女たちはもはや諦めの境地の中、自分の子供だけでも助けてやろうと、出来ることをやっているだけなのです。

彼女たちに責任は無いのです。

彼女たちが我が子に「いじめを見かけたら一緒にいじめときなさい。」と教えなければいけないような日本社会を放置してきたことが、私達の最大の罪なのです。

 

私達の社会を狂わしている全ての元凶は「村八分社会」にあるのです。

 

この村八分社会を克服することが、今私達がやらなければならない最大の課題なのです。

 

もちろん方法はあります。

私達は今まで、精神世界と経済世界は切り離して考えて来ました。

しかし、私達が幸せな人生を送るためには、「愛」と「道徳」と「経済的豊かさ」が必要です。

しかしこの3つはバラバラに存在するようなものではなく、3つで一つのものなのです。

3つで一つのものをバラバラに考え答えを出そうとしてきたからこそ、答えが出なかったのです。

長らく日本社会の村八分という悪習には問題があると言われ続けて来ましたが、誰も解決策を見つけることは出来ませんでした。

それは経済を精神世界と切り離して考えて来たからなのです。

経済と精神世界、これらのものを一つにまとめ上げることが出来た時、私達は長年苦しみ続けてきた村八分という悪習から開放されることになるでしょう。

子を持つ母親たちが我が子に「いじめを見かけたら一緒にいじめときなさい。」と教えなくてもすむ時代が来るということです。

いらぬ風評を広げ、他者を自殺に追い込むことのない世の中を作れるということです。

イノベーションを起こし日本企業を更に発展させることが出来る国になれるということです。

 

私達は乗り越えるべきなのです。

村八分社会などという悪夢のような時代を。

誰しもが幸せを掴むことの出来る社会を作るべきなのです。

 

そのためには、三つのものを一つにまとめ上げることが必要なのです。


 

続きは次回にしたいと思います。

 

日本でイノベーションを起こすためには(23)(本編その5 仏教の三法印とは)

前回の続きです。

 

前回、道徳教育の必要性をキリスト教の原罪を題材に説明したわけですが。

宗教の道徳教育をビジネスモデルにそのままスライドさせるといっても、キリスト教の善悪の判断基準は神の教えに従うこととされています。

ところが、私達の社会の科学は、宗教の神の存在や天国や地獄を否定してしまっているのです。

善悪の基準を教えている根本を否定してしまっているのですから、そのままスライドさせても説得力がないとなってしまいます。

そこで今回は、善悪とは何か、善悪をどうとらえればいいのかについて説明しておきたいと思います。

 

善悪とは、善行、悪行のことですが。

宗教では、善行を行うと天国にゆき、悪行をおこなうと地獄にゆきます。

では質問ですが、善行も悪行も行わなかった者はどこへゆくのでしょうか?

 

答えは、天国です。

ようは、悪行さえおこなわなければ天国へいけるということです。

 

とすると、何もしなくても天国へゆけるわけですから、天国へゆく方法を考える必要はないとなります。もちろん善行は良いことですので、奨励はすべきですが。

善行をおこなわなかったからといって、罰をうけるわけではないということです。

 

となると、罰を受ける悪行とはどのようなものかを知ることが重要となるわけです。

 

では、答えから先に書きますと。

 

悪行とは、「他者の価値あるものを奪う行為」となります。

 

例えば命などがそうです。

だれだって命は惜しいですし、失いたくないと思っています。

このため命を奪う行為は悪行となり、罰を受けなければなりません。

 

しかしながら、他者の命を奪ったら必ず悪行とされ罰を受けなければならないのかとなると、そうではないといえます。

例えば正当防衛で他者の命を奪っても、悪行とはならず、罰も受けません。

これは、最初に他者の命を奪おうとする者がいた場合、それを止めるためにはその者の命を奪うしか他に方法がないと判断された時、許される行為とされているためです。

ようは、どうしも他者の命を奪わなければ、罪のない人の命が助けられないため、やもうえず奪われる命だから例外的に許されるとされているのです。

 

しかし、他者の命を奪って罰を受けるのに悪行ではないといったケースも考えられます。

例えば、自殺の幇助です。

病気により余命宣告をされ、残された人生には病気による苦痛しか残されていない。

もうこんな苦しい思いをして助からないのなら、自殺をして死にたいが自殺をする体力も残っていないので、医者や知り合いに自殺の幇助を以来する。

自殺の幇助は違法行為になりますので、法的に罰を受けます。

しかし、苦しむ患者や知り合いを苦痛から助けてやりたいと思うのは、どちらかというと善行になり悪行とはいえないのです。

 

このように殺人一つをとっても、人を殺したからといっても必ず悪行となるわけではないのです。

では、私達はこの悪行をどのように捉え、考えればいいのでしょうか?

 

このことについては、仏教思想に「三法印」という思想がありますので、そちらで説明してゆきたいと思います。


 

<三法印とは>

三法印は三つの真理からなっています。

 

「諸行無常(しょぎょうむじょう)」

「諸法無我(しょほうむが)」

「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」

 

この三つです。

 

諸行無常とは・・・この世のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと。

諸法無我とは・・・いかなるものも原因や条件によって生じるものであり永久・不変のものではないこと。

涅槃寂静とは・・・三法印の無常、無我を悟ることで、欲望や、怒り、執着といった煩悩の世界から解脱し、静かな安らぎの悟りの境地に達すること。


 

と、なりますが。

これだけでは、仏教に詳しくない人は分からないと思いますので、私なりの解釈で説明させて頂きたいと思います。

 

まず諸行無常ですが、これは時間軸を指します。

長い時の流れの中で人々の考えや思いは変化し、消滅したりするということです。

 

次に諸法無我ですが、これは時間軸の一断面を現します。

時間軸の中で人の考えや思いは変化しますが。その時々の考えや思いは、さまざまな原因や条件によって形作られたもので、時間が流れてゆけば、原因や条件も変化するためその一断面の形も永久・不変ではなく変化してしまうということです。

 

あと涅槃寂静ですが、これは三法印の無常、無我の内には物事の真理が隠されており、それを知ることによって、欲望や、怒り、執着といった煩悩が消え去り静かな安らぎの悟りの境地に達するというものになります。

 

ではこれを踏まえた上で、家族の形を例に説明したいと思います。

 

昔の家族の形でいえば、男尊女卑で男は外で働き家族を食わせているから偉く、女は家庭で子育てをして男に従いなさい、というのが常識でした。

 

もちろん、諸行無常で時間は流れて形は変化しますから、現在では。

 

男女平等で、男と女はどちらが偉いというわけでもなく、男も女も外へ働きにゆき、どちらも平等に家事や育児をしなさい、というのが常識になります。

 

では、過去と現在どちらが正しいのでしょうか?

 

もちろん、現在の人は男尊女卑なんてとんでもない、男女平等が正しいに決まっているというでしょう。

ところが、過去にさかのぼって昔の人に聞いてみると、驚いたことに男女平等なんてとんでもない、男尊女卑が正しいに決まってるじゃないかというのです。

これは、いったいどうしてでしょうか?

 

昔の人はこう言います。

「男尊女卑が正しいに決まっている。男は女に比べて筋力が強いから同じ仕事をしても多くの作業ができる。女なんかに力仕事なんかさせていたら、家族を養うだけの収入を確保できないではないか。家族が飢えたらどうするつもりなんだ。それに男が家庭に入って子育てをしろといっても、男には乳が出せない。女が仕事で留守の時、赤ちゃんがお腹をすかせて泣いてもどうすることもできないではないか。これでは、子供を苦しめることになる。男女平等なんて、とんでもない。男尊女卑こそ正しい家族の形だ。」

 

なるほど、仕事というものが肉体労働ばかりの時代には、男が外に働きにいかなければ収入が減ってしまい家族が困るということのようです。

 

では、現代人はどう言っているのでしょうか?

「男尊女卑なんかありえない。昔と違って女が出来ないような肉体労働の職場の数は格段に減っている。女が働いて力を発揮できる場所なんかいくらでもあるじゃない・・・女の重役が少ない。女の議員が少ない。女の学者が少ない。女の総理大臣がいない。これってどういうこと、男尊女卑で差別をしているだけじゃない。いい加減にしなさい。男女平等こそ正しい家族の形です。」

 

諸法無我、いかなるものも原因や条件によって生じるものであり永久・不変のものではない。

家族の形も、その時代背景の原因や条件により変化してしまうものなのです。

形というものは、その時々の原因や条件で変化するものですから、正解がないのです。

でも私達は、これが正しいと言い、その形を他者に押し付けようとします。

家族の形もまた、私達の世界では、他者からこれが常識だと押し付けられるのです。

 

現代のある家族の母親は言いました。

「私達の家族は男尊女卑です。でも男女平等の家族でないからと私達を責めないで下さい。私は子供を産みました。可愛くて可愛くて仕方がありません。ですから、夫と話して専業主婦をやることにしました。私の夫は聡明で頼りがいがあり、出来の悪い私をいつも支えてくれています。私は一生夫についていくつもりです。夫は私の全てです。夫なしでは私は生きてゆけません。私は男女平等を否定はしませんが、しようとは思いません。私は男尊女卑のなかで生きてゆきたいのです。それが、私達夫婦の幸せだと気づいたのです。」

 

他にもこういった現代の家族もいました。

「私の夫はろくでもないヘタレです。何をやっても失敗ばかりです。また会社を首になったのです。でもこの人にも良い所だってあるのです。夫はすごく心の優しい人で、私達の子供を何よりも大切にかわいがってくれるのです。でも、ポンコツだからいつも失敗ばかり。もうこれ以上夫に仕事なんかさせてられません。私が一家の主となり、女尊男卑の家庭を作り。かかあ天下として一家を引っ張ってゆきます。これが私達家族にとっての最良の形だと、私は悟ったのです。」

 

家族とは、何なのでしょうか?

 

男女平等、男尊女卑、女尊男卑、これらは一つの形にすぎません。

 

涅槃寂静、無常と無我を悟ったものは、家族の形という執着を克服します。

男女平等という家族の形を克服し、男尊女卑、女尊男卑を家族の形にした者達の心の内にあったものは何なのでしょうか?

 

それは、お互いがお互いを認め、自分達の家族が幸福に生きられる道を探たことにあります。

 

「家族は子育てをする者達が、お互いを支え合い、幸せに生きるための形なのです。」

 

形が私達を幸せにするわけではありません。

幸せになるための形を、私達は選んでいるのです。

 

何のためにこの形が存在するのかという真理を知ることによって、欲望や、怒り、執着といった煩悩の世界から解脱し、静かな安らぎの悟りの境地に達するのです。

この悟りの境地のことを、仏教思想では涅槃寂静と呼んだのです。

 

他者に形を強要することは、他者にとって幸福という価値あるものを、奪うことになることもあるのです。

 

どの形が他者にとって価値あるものか、どの形が社会にとって最良のものか。

それは、その他者や社会の、置かれた立場や状態を知り、その奥にある真理を知らなければ、知ることはできないものなのです。

このため私達の世界の悪行とは、自らの思い込みで他者を避難し、相手の話もろくに聞かずに身勝手な形を押し付けようとすることだとなるのです。


 

つづきは、次回にしたいと思います。


 

日本でイノベーションを起こすためには(22)(本編その4 キリスト教の原罪とは)

では、ビジネスモデルに道徳を取り入れるための方法ですが。

 

大人の世界の道徳教育には宗教があるわけですから。

宗教でやっていることを、そのままビジネスにスライドさせればいいだけなのでそれほど難しくはありません。

 

ただ、私達の世界には法律がありますので、日本人が村八分などの不道徳を行うのであるならば、法律で取り締まればいいじゃないかとも考えられます。

しかしこれでは、本当に問題解決したことにはならない事情があるのですが。

この事情を知っておくかおかないかで、道徳をビジネスモデルに取り入れる必要性があるのかないのかの。動機づけが正統であるかどうかの判断に関わってくるのです。

 

ようは法律だけでいいのに、道徳教育なんか本当に必要なのかと思っていたのでは、ビジネスモデルに道徳を取り入れる理由がないとなってしまうのです。

 

そこで具体的な話に入る前に、まずは道徳教育が必要な理由について話しておきたいと思いますが。

そちらの説明をするには、キリスト教の「原罪」についての説明をするのが一番わかりやすいかと思いますので。そちらのお話をさせて頂きたいと思います。

ただ、原罪の解釈は色々ありますので、ここでは私個人の解釈で話させて頂きますのでそのつもりでお読み下さい。


 

<原罪とは>

神はアダムとイヴをお作りになり、楽園に置きました。

楽園には善悪を知る知識の木の実があり、神はそれを食べてはいけないと禁じていました。

しかし、蛇にそそのかされたイヴは木の実を食べてしまい、イヴにそそのかされたアダムも木の実を食べてしまいました。

神は、禁を破ったアダムとイブに罰を与えるとし、あらゆる生の苦しみを与えました。

これにより、アダムとイヴの子孫である人間は神の罰により、原罪を償うため苦しみの中で生きることとなりました。

その後イエス・キリストが現れ、イエスは十字架上で処刑されました。

そしてこのイエスの死により、人間に与えられた原罪は償われたとされ、私達は原罪の苦しみから開放されたとされています。


 

この話だけでは何のことか分からないかと思いますので、私なりの解釈をさせて頂きたいと思います。

まず蛇ですが、禁じられていることをするようにそそのかしていますので、これは人間の欲望になります。

次に善悪を知る知識の木の実ですが、宗教においては善悪は神様がお決めになっていることですから、神様の知識であり意思決定の基準となります。

これにアダムとイブという人間、この3者がどのような関係にあるのかといいますと。

まず、私達人間には本能があり欲望があります。

しかし私達人間は集団生活をしなければいけないために、欲望のままに動いてしまったのでは争いが絶えなくなってしまいます。そこで禁止事項を設けて守らせようとします。

そこでこの禁止事項というのは誰が決めているのかというと神様だとなるのです。

なぜならば、人間が決めてしまったのでは。あなたの決めた禁止事項では私が損をする。私の決めた禁止事項ならあなたは損をするかもしれないが私は得をするからいいじゃないじかと言い。いつまでたっても争いが絶えないとなってしまいます。

そこで、善悪の基準は神によって決められているとするのです。

ところが、アダムとイヴは神の善悪を知る知識の木の実を食べてしまいました。

このため、善悪を決める決定権は神ではなく人間である自分達で決めると宣言してしまったのです。

このため、欲望に負け木の実を食べてしまった、アダムとイヴの子孫である人間は。

神のお決めになった善悪を無視し、自分の欲望を満たすために善悪を自分の都合の良いように勝手に解釈して決めてしまうようになってしまったのです。

例えば、あなたの肌の色は私とは違う。私の肌の色は神に選ばれた色だ。だからあなたは神に選ばれてはいないのだから、私の奴隷にしてもいいから奴隷にする、といったようにです。

もちろんこの逆もありますので、お互いにお互いを、お前が俺の奴隷だと永遠に争うことになってしまうのです。

 

アダムとイヴの犯した罪は、自分達の欲望に従い、自分に都合の良いように善悪を決めてもいいとしたことにあるのです。

 

しかしその後イエス・キリストが現れ。イエスの死によって原罪は償われました。

なぜ原罪が償われたのかというと、イエスが神の教えを広めたからなのです。

ようは私達が原罪により神に罰せられているのは、それぞれの人がそれぞれに善悪を自分に都合の良いように解釈しているため争いが絶えず、その結果社会は混乱し混沌に満ちるため苦しめられているのです。

そこでイエスは、人々に神の教えを説くことにより善悪の基準が神によって統一され。混沌がなくなり安心して暮らせる生活が戻り、苦しみから開放されるため。

原罪は償われたとされるのです。

 

あとイエスの処刑についてですが。

なぜイエスが処刑されたことが原罪の償いに直結されるのかというと。

それは、イエスを処刑した者達が原罪によって苦しめられていたからです。

 

キリスト教の聖書には「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」とあります。

これはどういった意味なのでしょうか?

例えば現代社会でいえば、自分の子供がいじめにあい自殺に追い込まれて死んだとします。するとイエス様は、お前にはもう1人子供がいるから、その子もいじめっ子たちに差し出せ、と言っているようなものなのです。

一見ありえないような話ですが、これにはちゃんとした意味があるのです。

先程の原罪の話を思い出して下さい。

人間は欲望にかられて善悪を自分の都合の良いように書き換えてしまいます。

いじめっ子たちも、自分達の憂さ晴らしをしたいという欲望に従って、自分に都合の良いように善悪を書き換えてしまい。いじめは相手が悪いことをしたから懲らしめるためにやっているから善であり悪ではない。だから自分達は善行として同級生を自殺に追い込んで殺していると、善悪を勝手に書き換えているのです。

ようは善悪の基準を見失ってしまった原罪により、我が子は殺されてしまったということなのです。

このような事態を回避するためにはどうすればいいのかというと、キリスト教では神の教えにより善悪の基準を教えてあげなさいとなっているのです。

いじめはいつも同じ者がいじめられているわけではありません。いじめている者も、いついじめにあうかもしれないのです。

善悪の基準を勝手に書き換えてもいい状態では、誰がいじめにあって殺されるか分からないという状態であり、この混沌が原罪の状態なのです。

ここから子供達を救い出すためには、善悪の基準を伝えなければいけないのです。

子供達は悪魔に取り憑かれて同級生を殺しているわけではないのです。

善悪の基準を知らない無知から、自身の欲望を膨らませ原罪により善悪を書き換えいじめをしているのです。

このため子供達に必要なのは、原罪から救い出すための「救済」だとなるのです。

この行為が救済であることから、善悪の基準を他者に伝えるという行為は他者に対する「愛」だといえるのです。

話を戻すと。

「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」とは。右の頬を殴られたのは、相手が原罪により善悪の基準を書き換えているためであり、だとすると原罪によって苦しめられている相手を救うには、善悪の基準を伝えることであるのですが。もうすでに殴られたということは、原罪を知っている自分が、原罪を知らないで殴った相手に善悪の基準を教えて救っていなかったせいであるとなるのです。

人が頬を殴る行為は神が禁じていることです。禁じている行為をする者がいるということは、原罪を知っている自分が、原罪を知らない相手を救っていない結果であり。原罪から相手を救えなかった自分が悪いのだから、右の頬を殴られたら左の頬を差し出せとイエスは言ったのです。

そこにあるのが他者に対する救済であり愛であることから、キリスト教の教理は他者に対する愛であるといえるのです。

 

イエスが処刑されたことがなぜ原罪の償いになったのかというと、イエスが死んだのは他者を原罪から救えなかったためであり。その罪として死んだ代わりに、神の教えを後世に残したため私達は原罪の混沌から逃れることを許されたというわけです。

 

村八分、いじめ。私達の社会はいまもなお原罪の中にいます。

自分達の好きなように善悪を捏造し、他者を苦しめ憂さ晴らしをしてみたい。

 

このような行為にあっても、私達はむやみに怒ってはいけないのです。

 

彼らは原罪を知らないのです。

彼らは無知なのです。

彼らに必要なのは救済なのです。

彼らを原罪の混沌から救い出せるのは、原罪を知っている私達の愛しかないのです。

 

私達は自分1人では生きて行くことが出来ません。

他者の協力がなければ文明は滅んでしまいます。

他者を恨み、他者を憎み、他者を軽蔑するだけの社会を作ってはいけないのです。

お互いが、お互いを思いやり、愛するべき者になろうと心がける社会を作らなければいけないのです。

 

私達の社会には、他者の行動を禁じる制度として、法律と、道徳があります。

法律は、ただただ罰を与えるだけの制度です。

罰を与えて欲望を封じ込めるだけでは、原罪からは救えません。

自分で勝手に善悪の基準を書き換えてしまいますので、ただただ社会を恨み、憎み、軽蔑するだけになるからです。

そして、唯一私達の心を原罪から救い出してくれる制度が道徳なのです。

道徳も私達の欲望を禁じていますが法律と違うのは、自らの意思で禁止事項を守ろうとするところです。

私達は欲望に蓋をすると、自由を求めそこから逃れようとします。

しかし自由を求めることは、他者との争いを招きます。

争いを避けるため、私達はどうしても守らなければならない禁止事項を設けて守らせようとします。

それが幼少期のしつけであり、しつけは抑圧なので子供は逃げ出そうとします。

それを家族につなぎとめるのが母の愛であり。

しつけと、愛、両者の間に生まれた葛藤を乗り越えるため。

理想の人物像に自身を投影させ、欲望を乗り越えさせようとするのが昇華です。

この昇華だけが、自身の中に生まれた欲望を消し去り、禁止事項の抑圧からの開放と、自身の心の自由を獲得するための唯一の手段なのです。

 

道徳教育こそが、他者を思いやり、愛するべき人になろうと心がける唯一の手段であり。

そして、共通の善悪の基準を自ら守ろうとすることにより、人々は原罪から開放されるのです。

 

よって、私達に今必要なのは、他者への愛であり、道徳だというわけなのです。


 

つづきは、次回にしたいと思います。


プロフィール

smith339

Author:smith339
経済問題全般の記事になります。

スミスという名前の由来は、近代経済学の父と呼ばれるアダム・スミスから頂きました。
アダム•スミスは輸出によって得た金や銀などの貴金属こそが富だとする重商主義に反対して、庶民の必需品や便益品こそが富だと訴え国富論を発表しました。ようは低賃金低コストで輸出を増やし貴金属を国家に溜め込む事が富ではなく、自由な経済活動により多くの人にお金を回るようにし、庶民が必需品や便益品を手にする事が出来る様にする事が国の富だと考えたわけです。
私はアダム・スミスの考え方に賛同し、敬愛する者として、スミスの名をお借りすることとしました。

こちらはAmebaブログのリブログになります。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR