日本でイノベーションを起こすためには(22)(本編その4 キリスト教の原罪とは)

では、ビジネスモデルに道徳を取り入れるための方法ですが。

 

大人の世界の道徳教育には宗教があるわけですから。

宗教でやっていることを、そのままビジネスにスライドさせればいいだけなのでそれほど難しくはありません。

 

ただ、私達の世界には法律がありますので、日本人が村八分などの不道徳を行うのであるならば、法律で取り締まればいいじゃないかとも考えられます。

しかしこれでは、本当に問題解決したことにはならない事情があるのですが。

この事情を知っておくかおかないかで、道徳をビジネスモデルに取り入れる必要性があるのかないのかの。動機づけが正統であるかどうかの判断に関わってくるのです。

 

ようは法律だけでいいのに、道徳教育なんか本当に必要なのかと思っていたのでは、ビジネスモデルに道徳を取り入れる理由がないとなってしまうのです。

 

そこで具体的な話に入る前に、まずは道徳教育が必要な理由について話しておきたいと思いますが。

そちらの説明をするには、キリスト教の「原罪」についての説明をするのが一番わかりやすいかと思いますので。そちらのお話をさせて頂きたいと思います。

ただ、原罪の解釈は色々ありますので、ここでは私個人の解釈で話させて頂きますのでそのつもりでお読み下さい。


 

<原罪とは>

神はアダムとイヴをお作りになり、楽園に置きました。

楽園には善悪を知る知識の木の実があり、神はそれを食べてはいけないと禁じていました。

しかし、蛇にそそのかされたイヴは木の実を食べてしまい、イヴにそそのかされたアダムも木の実を食べてしまいました。

神は、禁を破ったアダムとイブに罰を与えるとし、あらゆる生の苦しみを与えました。

これにより、アダムとイヴの子孫である人間は神の罰により、原罪を償うため苦しみの中で生きることとなりました。

その後イエス・キリストが現れ、イエスは十字架上で処刑されました。

そしてこのイエスの死により、人間に与えられた原罪は償われたとされ、私達は原罪の苦しみから開放されたとされています。


 

この話だけでは何のことか分からないかと思いますので、私なりの解釈をさせて頂きたいと思います。

まず蛇ですが、禁じられていることをするようにそそのかしていますので、これは人間の欲望になります。

次に善悪を知る知識の木の実ですが、宗教においては善悪は神様がお決めになっていることですから、神様の知識であり意思決定の基準となります。

これにアダムとイブという人間、この3者がどのような関係にあるのかといいますと。

まず、私達人間には本能があり欲望があります。

しかし私達人間は集団生活をしなければいけないために、欲望のままに動いてしまったのでは争いが絶えなくなってしまいます。そこで禁止事項を設けて守らせようとします。

そこでこの禁止事項というのは誰が決めているのかというと神様だとなるのです。

なぜならば、人間が決めてしまったのでは。あなたの決めた禁止事項では私が損をする。私の決めた禁止事項ならあなたは損をするかもしれないが私は得をするからいいじゃないじかと言い。いつまでたっても争いが絶えないとなってしまいます。

そこで、善悪の基準は神によって決められているとするのです。

ところが、アダムとイヴは神の善悪を知る知識の木の実を食べてしまいました。

このため、善悪を決める決定権は神ではなく人間である自分達で決めると宣言してしまったのです。

このため、欲望に負け木の実を食べてしまった、アダムとイヴの子孫である人間は。

神のお決めになった善悪を無視し、自分の欲望を満たすために善悪を自分の都合の良いように勝手に解釈して決めてしまうようになってしまったのです。

例えば、あなたの肌の色は私とは違う。私の肌の色は神に選ばれた色だ。だからあなたは神に選ばれてはいないのだから、私の奴隷にしてもいいから奴隷にする、といったようにです。

もちろんこの逆もありますので、お互いにお互いを、お前が俺の奴隷だと永遠に争うことになってしまうのです。

 

アダムとイヴの犯した罪は、自分達の欲望に従い、自分に都合の良いように善悪を決めてもいいとしたことにあるのです。

 

しかしその後イエス・キリストが現れ。イエスの死によって原罪は償われました。

なぜ原罪が償われたのかというと、イエスが神の教えを広めたからなのです。

ようは私達が原罪により神に罰せられているのは、それぞれの人がそれぞれに善悪を自分に都合の良いように解釈しているため争いが絶えず、その結果社会は混乱し混沌に満ちるため苦しめられているのです。

そこでイエスは、人々に神の教えを説くことにより善悪の基準が神によって統一され。混沌がなくなり安心して暮らせる生活が戻り、苦しみから開放されるため。

原罪は償われたとされるのです。

 

あとイエスの処刑についてですが。

なぜイエスが処刑されたことが原罪の償いに直結されるのかというと。

それは、イエスを処刑した者達が原罪によって苦しめられていたからです。

 

キリスト教の聖書には「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」とあります。

これはどういった意味なのでしょうか?

例えば現代社会でいえば、自分の子供がいじめにあい自殺に追い込まれて死んだとします。するとイエス様は、お前にはもう1人子供がいるから、その子もいじめっ子たちに差し出せ、と言っているようなものなのです。

一見ありえないような話ですが、これにはちゃんとした意味があるのです。

先程の原罪の話を思い出して下さい。

人間は欲望にかられて善悪を自分の都合の良いように書き換えてしまいます。

いじめっ子たちも、自分達の憂さ晴らしをしたいという欲望に従って、自分に都合の良いように善悪を書き換えてしまい。いじめは相手が悪いことをしたから懲らしめるためにやっているから善であり悪ではない。だから自分達は善行として同級生を自殺に追い込んで殺していると、善悪を勝手に書き換えているのです。

ようは善悪の基準を見失ってしまった原罪により、我が子は殺されてしまったということなのです。

このような事態を回避するためにはどうすればいいのかというと、キリスト教では神の教えにより善悪の基準を教えてあげなさいとなっているのです。

いじめはいつも同じ者がいじめられているわけではありません。いじめている者も、いついじめにあうかもしれないのです。

善悪の基準を勝手に書き換えてもいい状態では、誰がいじめにあって殺されるか分からないという状態であり、この混沌が原罪の状態なのです。

ここから子供達を救い出すためには、善悪の基準を伝えなければいけないのです。

子供達は悪魔に取り憑かれて同級生を殺しているわけではないのです。

善悪の基準を知らない無知から、自身の欲望を膨らませ原罪により善悪を書き換えいじめをしているのです。

このため子供達に必要なのは、原罪から救い出すための「救済」だとなるのです。

この行為が救済であることから、善悪の基準を他者に伝えるという行為は他者に対する「愛」だといえるのです。

話を戻すと。

「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」とは。右の頬を殴られたのは、相手が原罪により善悪の基準を書き換えているためであり、だとすると原罪によって苦しめられている相手を救うには、善悪の基準を伝えることであるのですが。もうすでに殴られたということは、原罪を知っている自分が、原罪を知らないで殴った相手に善悪の基準を教えて救っていなかったせいであるとなるのです。

人が頬を殴る行為は神が禁じていることです。禁じている行為をする者がいるということは、原罪を知っている自分が、原罪を知らない相手を救っていない結果であり。原罪から相手を救えなかった自分が悪いのだから、右の頬を殴られたら左の頬を差し出せとイエスは言ったのです。

そこにあるのが他者に対する救済であり愛であることから、キリスト教の教理は他者に対する愛であるといえるのです。

 

イエスが処刑されたことがなぜ原罪の償いになったのかというと、イエスが死んだのは他者を原罪から救えなかったためであり。その罪として死んだ代わりに、神の教えを後世に残したため私達は原罪の混沌から逃れることを許されたというわけです。

 

村八分、いじめ。私達の社会はいまもなお原罪の中にいます。

自分達の好きなように善悪を捏造し、他者を苦しめ憂さ晴らしをしてみたい。

 

このような行為にあっても、私達はむやみに怒ってはいけないのです。

 

彼らは原罪を知らないのです。

彼らは無知なのです。

彼らに必要なのは救済なのです。

彼らを原罪の混沌から救い出せるのは、原罪を知っている私達の愛しかないのです。

 

私達は自分1人では生きて行くことが出来ません。

他者の協力がなければ文明は滅んでしまいます。

他者を恨み、他者を憎み、他者を軽蔑するだけの社会を作ってはいけないのです。

お互いが、お互いを思いやり、愛するべき者になろうと心がける社会を作らなければいけないのです。

 

私達の社会には、他者の行動を禁じる制度として、法律と、道徳があります。

法律は、ただただ罰を与えるだけの制度です。

罰を与えて欲望を封じ込めるだけでは、原罪からは救えません。

自分で勝手に善悪の基準を書き換えてしまいますので、ただただ社会を恨み、憎み、軽蔑するだけになるからです。

そして、唯一私達の心を原罪から救い出してくれる制度が道徳なのです。

道徳も私達の欲望を禁じていますが法律と違うのは、自らの意思で禁止事項を守ろうとするところです。

私達は欲望に蓋をすると、自由を求めそこから逃れようとします。

しかし自由を求めることは、他者との争いを招きます。

争いを避けるため、私達はどうしても守らなければならない禁止事項を設けて守らせようとします。

それが幼少期のしつけであり、しつけは抑圧なので子供は逃げ出そうとします。

それを家族につなぎとめるのが母の愛であり。

しつけと、愛、両者の間に生まれた葛藤を乗り越えるため。

理想の人物像に自身を投影させ、欲望を乗り越えさせようとするのが昇華です。

この昇華だけが、自身の中に生まれた欲望を消し去り、禁止事項の抑圧からの開放と、自身の心の自由を獲得するための唯一の手段なのです。

 

道徳教育こそが、他者を思いやり、愛するべき人になろうと心がける唯一の手段であり。

そして、共通の善悪の基準を自ら守ろうとすることにより、人々は原罪から開放されるのです。

 

よって、私達に今必要なのは、他者への愛であり、道徳だというわけなのです。


 

つづきは、次回にしたいと思います。


スポンサーサイト



プロフィール

smith339

Author:smith339
経済問題全般の記事になります。

スミスという名前の由来は、近代経済学の父と呼ばれるアダム・スミスから頂きました。
アダム•スミスは輸出によって得た金や銀などの貴金属こそが富だとする重商主義に反対して、庶民の必需品や便益品こそが富だと訴え国富論を発表しました。ようは低賃金低コストで輸出を増やし貴金属を国家に溜め込む事が富ではなく、自由な経済活動により多くの人にお金を回るようにし、庶民が必需品や便益品を手にする事が出来る様にする事が国の富だと考えたわけです。
私はアダム・スミスの考え方に賛同し、敬愛する者として、スミスの名をお借りすることとしました。

こちらはAmebaブログのリブログになります。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR